結成52年を誇る
日本を代表するプロビックバンド
アロー ジャズ オーケストラ(AJO)
AJOの遍歴
1958年、若きピアニスト・北野タダオをリーダーとして、
当時、大阪キタの最高級のナイトクラブ「クラブ アロー」の専属バンド
「北野タダオ&アロー ジャズ オーケストラ(AJO)」として結成。
その高い実力は、たちまち自他共に認めるNo.1バンドとして周知される。
「クラブ アロー」閉店後もその名前のまま演奏活動を継続、
1992年にはその音楽的求心力と知識を基に「AJOミュージックスクール」を設立、
2004年には、その3000曲に及ぶ蔵書楽譜の演奏する目的のため、
自主運営によるライブハウス「ライブ スポット アロー(LSA)」をオープン、
AJOのみならずメンバー個々の演奏活動の場として、
また関西ポピュラー音楽界の情報発信拠点としても注目を集めている。
また1995年より、自身の音楽的向上心を結実させる目的の下、
年間5~6回に及ぶ「定期演奏会」を大阪・京都・神戸・東京・名古屋で開催、
その開催数は延べ86回(2009年末現在)に及ぶ。
1995年に「Bopularity」、2001年には「Color Of The Moment」と
オリジナルCDを発表するなど、現在、我が国で最も充実した演奏活動を続ける
プロビッグバンドとして全国的に評価されている。
2008年6月、創設者の北野タダオ(Pf.)の引退に伴い、
新リーダー・宗清洋(Tb.)の下、
バンド名を「アロー ジャズ オーケストラ(AJO)」と改め、
関西ジャズ界の雄として、より一層のグレードアップを目指し、鋭意活動を続けている。
新リーダー・宗清 洋が語る
アロー ジャズ オーケストラ
結成当時の思い出
結成当時の状況
AJOが結成された当時は、1000人以上入るような大きなダンスホールや
キャバレー・クラブ等がたくさんあり、多くのミュージシャンが必要とされた時代でした。
当然、いろいろなレベルのミュージシャンがいたのですが、
AJOはその中でも、群を抜いてレベルの高いバンドでした。
私は結成の1年後に入団したのですが、
入ったときはそのレベルの高さに驚いたものです。
それだけやり甲斐があって、勉強になりましたね。
クラブ アローについて
クラブ アローは、太平洋岸最高級のクラブといわれたナイトクラブでした。
ビッグバンドがあって、コンボバンドは古谷充とザ・フレッシュメン。
そこで国内外の有名なアーティストを迎え、
連日連夜、国際的なショーが繰り広げられていました。
アニタ・オディを始め、ジュン・クリスティ、ジュリー・ロンドン、
オスカー・ピーターソン、ローランド・カーク、そしてサム・テイラーや
クリス・コナーなど、錚々たるアーティストが来ていましたね。
町中の一等地(梅田・堂山町)にあったのですが、
芝生の植わった庭だけで300坪ぐらいありました。
その向こうには滝があり、築山や池があるなど、日本庭園風のしつらえでしたね。
夏には、その庭にステージを組み、テーブルを出して
バーベキュー等を楽しみながらのナイターコンサートをするのですが、
照明に芝生の緑が生えてそれは奇麗でした。
とにかく、今では考えられないほど贅沢で、すべてがゴージャスそのものでしたね。
AJOの活躍
結成からしばらくしてアイジョージさんや坂本スミ子さんとの仕事を始め、
ショーやテレビ出演など対外的な仕事も増えてきました。
最初は13人編成でしたがそれでは対応しきれなくなってきて、
結成の2年後ぐらいにはフル編成になりました。
テレビでは、坂本スミ子さんとの「スミ子とともに」、
アイジョージさんとの「カーネギーホールへの道」などの番組があり、
ラジオではNHKの「音楽アルバム」によく出演していました。
この頃は、外の仕事とクラブ出演とのかけもちで、忙しい毎日でした。
ショーの仕事では全国を回り、当時は交通手段が不便だったので
移動の時には苦労がありましたが、それも今となっては懐かしい思い出です。
現在のAJO
結成後の40年間、AJOはいい時代ばかりではなく、
多難な時代も経験してきましたが、
1995年に自分達の力で、多くの人にAJOサウンドをアピールしようという
前向きな姿勢で定期演奏会を始めてからは、
サウンドはもちろん、ステージでの立ち振る舞いにいたるまで
気を配らなければ、と皆の意識も変わってきました。
昔のように、楽器さえ持っていれば仕事がいくらでもある、
という状況ではなくなりましたが、音楽的なレベルは昔よりずっと向上していますし、
常にベストを目指して努力を重ねるという、今のあり方が正しいように思います。
そして、北野さんを中心に固定したメンバーが集まり、皆の連帯感も強くなりました。
これからも常にベストコンディション、ベストのプレイを心掛けて頑張りたいと思います。